知恵袋ブログ
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2017.05.14
目次
ビールの誕生については諸説があり、紀元前8000~4000年までさかのぼるといわれ、文明とともに古くから人々に親しまれていたのは確かなようです。
人類最初の文明は、メソポタミアに興ったシュメール文明だといわれていますが、そこではすでにビールが飲まれていました。シュメールの人々が粘土板に楔形文字で描いたビールづくりの模様が記録に残っているからです。当時のビールの製法は、まず麦を乾燥して粉にしたものをパンに焼き上げ、このパンを砕いて水を加え、自然に発酵させるという方法だったようです。
また、紀元前3000年頃のエジプトでもビールは人々の間で広く飲用されていました。肥沃なナイル河畔で収穫される大麦を原料につくられたのです。
その後の時代でもビールは、アッカド・アッシリア・バビロニアなどの古い文明遺跡から、製造・飲用の事実が明らかになり、重要な飲み物として広まっていったようです。
紀元前1700年代半ばに制定された初めての成文法『ハムラビ法典』にもビールにかかわる法律が制定されています。この頃には各所に醸造所が建設され、今日のビアホールにあたる店も出現していたようで、その取り締まり規則、罰則などが公布されました。例えばビールを水で薄めた者は、水の中に投げ込まれるという罰を設けたり、ビアホールで謀叛の密議などをしているのを知った店の主人はすぐに届け出ないと同罪に処す、といったものです。
いずれにしても、古代人の生活においてビールは神の恵みである神聖な飲み物であったことに変わりはありません。強烈な陽光の下で働く農民や労働者にとっても、一杯のビールは渇きを癒し、健康を感謝し、明日のエネルギーを蓄える役割を果たしていたのでしょう。
一方、ギリシャ・ローマというとワインが主役になります。これは、気候風土の関係で麦類の生育がはかばかしくなかったためと考えられます。これに対して、葡萄はよく生育したので、もっぱら葡萄酒を醸造することになりました。ギリシャ悲劇の詩人ソフォクレスが、「ギリシャ本土のビールを、我々は飲みたいと思わない」と書いていることからも、あまり上等なビールができなかったことがうかがえます。
北ヨーロッパでは、古代ゲルマン人が定住生活に入った紀元前1800年頃にはすでにビールがつくられていたことが記録されています。
ゲルマン人やケルト人のビールは、麦類を麦芽に加工する現代にも通じるつくり方をしていたようですが、ローマ時代の歴史家・博物誌家のタキトゥスの書『ゲルマニア』によると、あまり上等な酒とは思われていないばかりか、ゲルマン人のビール好きが揶揄されています。「飲料は大麦または小麦からつくられ、いくらか葡萄酒に似ているが品位の下がる液体である。……彼らは渇きに対して節制がない。その酒癖をほしいままにさせるならば、彼らは武器によるよりはるかに容易に、その悪癖によって征服されるであろう」。
中世になると、ヨーロッパでは、上等なビールが修道院でつくられるようになりました。当時の知識人であった修道士や僧侶たちは醸造知識にも優れ、香味剤である「グルート」を使ってビールをつくりました。この頃のビールは、栄養補給や医療にも利用されていたようです。
ところが、11世紀後半になると「グルート」の中でも「ホップ」を使用した場合に、ビールの品質が飛躍的に向上することがわかってきて、このビールが次第に広まっていきます。13世紀には、修道院のグルートビールと都市のホップビールの間で激しい競争を巻き起こすことになりました。15世紀以降、都市の発展とともにギルド制が定着するに至って、ビールの醸造は次第に市民の手に移るようになっていきます。ビールが市民に広く愛飲されるにしたがって、醸造技術に次々と改良が加えられ、ビールの品質はより向上していきました。
ドイツでは、1516年に「ビール純粋令」が出されており、大麦・ホップ・水の3つの原料以外は使用してはならないと定めることで、ビールそのものの定義を決定するとともに、品質維持向上に貢献しました。
大航海時代には、ビールは腐りやすい水の代わりに飲料用として用いられており、アメリカ大陸発見で有名なメイフラワー号には、400樽ものビールが積み込まれていたそうです。
ビールは古代バビロニアではシカリといいました。このシカリがヘブライ語ではシェケール(濃い酒)となり、ギリシャ語ではシケラ(甘い酒)となります。ホメロスの『イーリアス』にはキューケイオー(混ぜ粥)というものが出てきますが、これは粥といっても飲み物といったもので、元来はビールではなかったかといわれています。
ケルト人(ガリア人)はローマ時代、フランス地方に住んでいましたが、ローマ人は彼らの飲むビールをセルボワーズと呼んでいました。これはスペイン語のセルヴェーサ、ポルトガル語のセルヴェージャと同じく、ラテン語のケルウィシア(ケレスのウィシア、生命力)に由来します。ケルト人は自分たちの言葉ではアルーとかエウルといっていたようです。これはエール同様「植物のしぼり汁」の意味で、苦味や渋味をもつ植物を加えた飲料を指していたといわれます。オイルも同じ系統の言葉です。
ビールという言葉はゲルマン語のベオレ、つまり穀物からきたといわれています。どうやらこれが現在のビールの語源といえるのかもしれません。
ロシア語ではビールのことをピーヴォといいます。”飲む”のピート、”酒類、飲料”のピートョの古語ピーヴァトに関係があるようです。今もつくられるクワスはパンを砕いて水に入れ、発酵させたものです。
紀元前2000年頃のオリエントのビールには、まだホップは使われていません。ホップが、いつ頃からビールに使われるようになったかについては定説がありません。
新バビロニア帝国のネブガドネザル王がユダヤ王国を征服し、多くの住民をバビロンに連れていった、いわゆるユダヤ人の「バビロン捕囚」の時代(紀元前530年)に、彼らの書き残したものがあります。彼らはワインも飲みましたが、ビールをセカールと呼び、その製造に大いに力を注ぎました。ユダヤ教の教書『タルムード』の中にカスタと呼ばれる植物がありますが、フーバーはいろいろな根拠からこの植物をホップと判断し、この時代(紀元前600年頃)からホップが使用されるようになったと推測しています。
これに対しブラウンガルトは、その著書『ホップ』の中で、現在、メソポタミアの近くでホップの野生しているところはコーカサスであると書いており、この地方には今でも古代印欧語を話すオセッテという民族が居住し、野生のホップを使い、極めて原始的な方法でビールをつくっているということを明らかにしています。
また、コーカサスの南に居住していたアルメニア人の紀元前の酒盛の絵には、ホップとビールの絵が描かれています。
これらの事実から類推すると、ホップがビールに初めて使用されたのはおそらく紀元前1000年頃で、ビールのつくり方がコーカサスへ伝播し、その地の民族によって初めてホップが添加され、アルメニア人を通じてバビロンへ逆輸入されたのかもしれません。
今日、野生のホップは北半球の寒冷な地方に見出されています。ホップはつる性の植物であり、わが国のカラハナソウ(唐花草)もその一種で、「雌花の小苞ならびに萼(うてな)には黄色の細腺粒が付着し、佳香を放ち、味にがく、その点、母種のホップ、すなわちセイヨウカラハナソウと異ならず」と、牧野博士の『日本植物図鑑』に記されています。
近代以降のビールに決定的な影響を及ぼしたのは、細菌学者パスツールだといえるでしょう。彼は生物の自然発生説を否定し、生物は生物からのみ発生することを実験によって証明しました。彼はその理論の延長から、葡萄酒の再発酵を防止するために低温殺菌法を発明しています。この方法はパストリゼーションと呼ばれ、ビールはこの方法を採用することによって長期間変質しないでおくことが可能になったのです。
さらにいえば、ハンセンが酵母の純粋培養法を発明したのもパスツールの理論の応用といえますし、消毒による衛生環境の改善なども彼の殺菌という考え方から導かれたものです。細菌から守り、安定した品質のビールを長持ちさせることができるようになったのは、パスツールのおかげといってよいでしょう。
また、ビールの普及のうえでリンデの名前も欠かすことはできません。現在、世界の主流である下面発酵ビールは低温でじっくり時間をかけて、発酵熟成させることが必要です。リンデが発明したアンモニア冷凍機は初めて工業的に四季を通しての醸造を可能にし、品質を向上させることに貢献しました。
なお、缶ビールについてですが、缶詰の原理はアペールによって考案されました。また、缶ビールそのもののアイデアは、1935年にアメリカで生まれたといわれています。
わが国にビールが入ってきたのは英米の船が来航してからのことです。万延元年(1860)、幕府の第一回遣米使節の一人、玉虫左太夫は初めてビールを飲んで「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と書いています。
それ以前、ペリーが来航した嘉永6年(1853)に、蘭方医川本幸民は蘭書の記載を見て、江戸の露月町の私宅でビールを試醸したといわれていますから、これが日本でのビール醸造の起源といえるでしょう。
明治3年にはアメリカ人コープランドが横浜の山手居留地に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設してビールの醸造を開始し、主に居留外人向けに販売しました。
明治5年に大阪で渋谷庄三郎が日本人では初めてビールの醸造・販売を本格的に開始、翌6年には甲府で野口正章が、そして9年には札幌で北海道開拓使麦酒醸造所が創設され、中川清兵衛を中心に醸造を開始、翌10年には東京に出荷しています。
こうして日本のビール産業は黎明期を迎えることになります。
一時は100社前後のビール会社ができるほどで、ザンギリ頭で代表される文明開化は日本人の生活様式にも多くの変化を与え、ハイカラ族はビールを好み、文明人たらんとしたといわれています。ただし、この時期は国産ビールに比べ舶来ビールが幅をきかせていました。
明治20年代に入ると日本も産業革命による近代化が本格的になってきます。近代的なビール会社が各地に誕生し、新しい時代を迎えつつありました。
明治20年には東京で日本麦酒醸造会社が、21年には北海道庁から払い下げられ札幌麦酒会社が、22年には大阪で大阪麦酒会社が設立され、26年にそれぞれ日本麦酒株式会社、札幌麦酒株式会社、大阪麦酒株式会社となりました。また、横浜のコープランドビールは、その後香港法人のジャパン・ブリュワリー・リミテッドが引き継ぎ、明治21年から麒麟ビールを発売しています。現在に至る会社はいずれもこの時期に新たな出発をしています。
明治16年、日本のビール総生産量は1,155石(約208kl)、輸入が2,500石(約450kl)だったものが、20年には国産17,508石(約3,151kl)、輸入9,053石(約1,630kl)と国産と輸入が逆転し、30年には国産65,717石(約11,829kl)、輸入が858石(約154kl)となり、この時期、ビール産業の著しい成長がわかります。
明治の初めにはビールには酒税が課せられていませんでした。一方、清酒は地租と並んで歳入の二本柱となっており、ビールに比べて不公平であるという不満が高まっていました。明治33年、北清事変が起きると、翌年10月にビールにも軍備増強のために酒税が課せられることになります。資金力の弱い小醸造所はその負担に耐えられず、姿を消していきました。ビール産業は明治30年代から40年代にかけて再編成されることになりました。
大正3年に第一次世界大戦が勃発しましたが、日本は地理的条件にも恵まれ、ほとんど参戦することなく経済的には好況を迎えることになりました。ビール業界もその恩恵を受け、ヨーロッパからビールの補給を断たれた東南アジアやインドの市場に進出するなど大戦景気を満喫しました。その後もビールに対する需要は旺盛で、ビール会社は次々に新工場の建設に乗り出し、新たにビール事業を始める会社も現れ活況を呈しました。ちなみに、第一次世界大戦の終了した翌大正8年、アメリカでは禁酒法が議会を通過し、ビール醸造機械が不要となりました。これを買い取った日本の企業家が新しいビール会社をつくるようなことも起こりました。
大正末期から昭和初期にかけて大戦後の反動的不況が深刻化し、消費量の低下や安売り競争の激化などビール産業も混乱と低迷の時代を迎えることになります。昭和8年、大型の合併および共販会社の設立により業界の秩序は徐々に回復し、14年には戦前の最高である31万klの生産量を記録しました。
昭和14年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、政府は国家総動員法の発動を決意し価格統制令を施行、物価だけでなく原料や製造量まで統制を受けることになりました。ビールの価格統制は昭和14年の価格指定から始まり、15年には生産・卸・小売りの3段階について都市、地方別に公定価格が設定され、18年には全国単一の公定価格となりました。
また、昭和15年には配給制が開始され、18年にはラベルはただ「麦酒」と書いただけのものになってしまいました。
太平洋戦争への突入により原料である大麦やホップは次第に入手困難となり、また電力・石炭なども不足したため、生産量は減少の一途をたどりました。終戦の年の生産量は昭和14年当時の4分の1となってしまい、この水準に戻ったのは28年になってからです。
この間、ビール税は戦費調達のためほとんど毎年のように増税されています。
戦後の混乱のなかでビール会社は復興への努力を開始しました。
昭和24年、ビール産業にも過度経済力集中排除法が適用され、トップメーカーである大日本麦酒が2分割されて戦後の新しい体制ができあがるとともに、酒類配給公団が廃止されて、ビール会社は自由に出荷・販売できるようになりました。同年6月には料飲店の再開を待ってビアホールも各地で復活、ビールファンが押し寄せ大にぎわいだったといいます。ついでながら東京都内では500ml入りジョッキ1杯が130円でした。
翌昭和25年には特約店ルートによる販売を開始して本格的な競争を再開し、27年には原料統制が解除されて、28年には戦前の最高水準を超す生産高を達成するまでになっています。
昭和30年代は所得倍増の波に乗ってビールに対する需要も大幅に伸びた時代でした。戦前のビール消費がほとんど料飲店であったのに対し、戦後はこの時期から家庭で飲まれるビールが飛躍的に伸びてきています。電気冷蔵庫が普及したのもこの時期で、家庭に買い置きされたビールが食卓に並ぶことになったのも大きな原因でしょう。
昭和39年のビール製造量は約200万klに達し、10年間で5倍の伸びとなったのです。こうしたなかでビール会社は生産能力の拡大に努め、新しい工場が次々に建設されました。新しくビール事業に進出する会社があったのもこの時期です。
昭和35年には統制が撤廃され、戦前の公定価格は基準価格制度へと移行します。さらに昭和39年には基準価格が廃止され、昭和14年の価格統制実施以来実に25年ぶりにビールは自由価格に復帰したのです。
昭和40年代はビール需要の伸び率が徐々に鈍化してきましたが、全国で10工場が新設され、製造量は10年間で約2倍に達しました。また、現在使用しているプラスチック箱の導入やビールギフト券の発売もこの時期に行われました。
昭和50年代に入ると、52年に製造量が400万klに達したものの年率平均2.6%の伸び率となり安定成長期に入りました。
その後、昭和62年に製造量が500万klを突破し、平成元年には600万kl、さらに6年には700万klを超えました。7年以降は景気の低迷等の影響により、再び600万kl台の水準となりましたが、6年に記録した713万5千klが過去最高の製造量となっています。
このように近年もビールの製造量は安定的に増え続けています。これは消費者の嗜好の多様化・個性化や女性の飲酒人口の増大に対応して、各種の新商品の発売を含め商品対策の活発な展開や、ビールをいつでも新鮮な状態で流通するためのフレッシュローテーションをはじめとする一層の品質向上努力により、健康的な低アルコール飲料であるビールの特性が消費者に幅広く支持されたことによるものと考えられます。
最近のビール工場は、消費者の方々が楽しくわかりやすく見学できるよういろいろと工夫がなされ、また外国ブランドビールの国内ライセンス生産を行っている工場もあり、国際的な広がりも出てきています。
さらに、規制緩和のひとつとして平成6年4月にビール製造免許に係る最低製造数量基準が年間2,000klから60klに引き下げられました。これにより、わが国でもマイクロブルワリーやパブブルワリーが各地で次々登場し、それぞれ個性あるビールを製造しています。